なかにわ

2.引き上げから会社設立まで

 敗戦から引き揚げまでの、生死を彷徨った苦労は、また書く機会もあろうが。

昭和22年8月、満州コロ島から、佐世保に難民として引き揚げ、渋谷区栄通り、井の頭線の神泉駅から、当時の一高前駅間のトンネルの真上(現在は山手通りの橋の上になっている)のバラックに引き揚げてきた。そこは長谷川一夫邸の隣(正確にいうと彼の塀を壁の一面として利用させて貰い)である。正にラフな鳥の巣か、ネズミの穴みたいな処、取りあえずそこに棲む事にした。


当時は月給600円の時代、就職しての給料では、夫婦二人と両親はとても食べさせられない。そこで、学生時代の趣味で覚えたラジオ修理で、糊口を潤すことにした。 仕方ない、まずハッタリで、道玄坂の露天の電気屋を回り、難しくて手に負えないようなラジオや、電気物の修理の仕事があれば回してくれと頼んだ。

戦後の庶民生活を描いた石川達三さんの小説、「恋文横町」の中で、電気屋の元大本営陸軍参謀モデル児井さんが、空襲で焼けた映画館の切符売り場跡に電気屋を開いていた。 同じ陸軍仲間のよしみで、児井さんには随分と仕事を回して貰った。十数台のラジオを一日で直したり、だんだんと高級物もこなせる技術将校上がりの電気屋として有名になってきた。そのうち、ブロカーがいろいろと難しいが、そこらにない面白い仕事を持ってくるようになった。


占領軍により、日本国憲法、特に労働基準法が制定された。その中に、一定規模以上の工場には、騒音計と、嘘発見機(精神検流計、サイコ ガルバノメータ)、反応時間計を備えることが義務つけられた。 騒音計など、私は勿論、大部分の日本人には、どんな物か想像すら付かなかった。それをブロカーが、GR社のカタログを持ってきて私に示し、作れば売ってくれるという。

理論も知らない、カタログだけで、見たこともない物を作るなど、全くの無謀とも云える話だが、私はただただ食べるために飛びついた。まず騒音計、今日では常識的な機械だが、仕様、性能など情報のあるのはカタログだけで、それを私の手作りで作った。幸いにも私の作った騒音計が精密級と認められ、電気試験所にも採用され、それが元でJISの前身JESの企画委員に選ばれることになった。


その後、しばらくは騒音計の製造で生計を立てていたが、ある偉い先生が、騒音と塵の計測は難しいので、手を染めない方がよいだろうとアドバイスしてくれた。なるほど、騒音計即ち、音響計測を業とするには、本格的には根本的な基礎研究と、それに、膨大な設備投資を必要とすることが判ってきた。
それを、無理して名人芸で作っても、採算もとれないことも思い知った。 そこで、騒音計は一時中止することとし、後で述べるデジタル技術に発展した、時間計のカウンターの方に勢力を集中することになった。


しかし、音響技術は、発展性もあり魅力ある分野である。いつか時機が到来したら、再度挑戦することを、密かに期していたが、数十年の間を置き、やっと十年ほど前、横浜に総合技術研究所を設立した際、第一線研究者もほぼ揃い、また立派な音響設備が整ったので、本格的な研究製作を開始した。


次に、嘘発見機は精神検流計或いはサイコガルバノメータといわれる検流計である。なにか質問されたとき、もしその質問が嘘と関係すれば、気分的に緊張する。その緊張度に応じて、皮膚の電気伝導度が変わってくる。その抵抗変化を測定して精神状態を推定する計測器のことである。 それまでは単に感度のよい電流計で測定していたのを、増幅器を使って使いやすくした。最近のテレビで、私の手作りの物が今でも健在に少年鑑別所で使われているのを見たのは感激だった。


次のテーマである、反応時間計とは、本来は車など運転する際、赤の信号がでて、実際にブレーキを押すまでの時間間隔の測定器である。それまでは、一定電圧電源から、コンデンサーに抵抗を通じて電流を流すと、コンデンサーの電圧は一定のカーブで上昇する、その上昇電圧を計測して、短時間間隔を測定していたが、水晶発信機の周期の数を数えて、正確に短時間でも測定できるようにした。それを、電子管計数器と命名し、待望の工業方面に売り出すことにした。

電子管計数器は水晶発振器の発信周波数を基準にしているので、数百万分の一秒の短時間から、長時間まで、滅法正確に測定できる。


また、幸運にも、この技術がデジタルCPUにも結びつき、わが社の表看板デジタル技術として発展した。左様わが社は、水晶発振器を基準にしたデジタル技術、即ち時間計測から始まったのである。 その後、一定時間内の個数即ち周波数、位相差、フーリエ変換FFTなどとそのデジタル技術は発展した。中でも、位相差を使って計測する、トルクメータは私のライフワークとして今日まで及んでいる。

このデジタル技術は、後になって自動車の性能試験機と、耐久試験機として世界中の各メーカーに数多く採用された。トルクメータとともに日本自動車技術協会からは技術功労賞、国から紫綬褒章を頂き、国家紫綬褒章受章式また自動車技術協会の本家である、米国のSAEからもFellow (Grade of Membership) に指名されたのは名誉のことであると思っている。


しかし、是までの私の製品は、労働基準法即ち心理学用を主体に使われてきた。しかし、私は工学部出身なので、工場の復活とともに、工業方面へ展開する事を念願としていた。 この工業方面への応用の第一号は、戦後新しく日本で、創造完成された技術は新幹線である。この、新幹線の技術的課題は、世界で初めての電車で営業運転250Km/hで走る事である。その速度で、はたして架線から電力が安定に集電できるかどうかと、ブレーキの効きが問題で、その測定法である。


そこで、私の考えた架線のある特定の時間と、その間の離線する比、離線率の測定法と、ブレーキ測定法案を考え、当時大井町駅近くにあった古い鉄道車両内のあった鉄道技術研究所、研究官に説明した。 離線率測定器は、電子管計数器をストップウォッチと考えると、例えば10秒間の間に離線を判定、その判定間だけ電子管計数器を動かし、その秒数を積分し、10秒で割れば離線率がでてくる。また、ブレーキをかけ車体の止まるまでの時間を計り、それをブレーキ性能とした。なにを静止と、判定するかに一工夫あったが、後で考えるとコロンブスの卵で、反応時間計と同じ原理ですんだ。結局私の案が採用され、今でも当時の鉄道技研の方々とも、よく話題に上る。


またそのブレーキテスターは大がかりで900万円ほどしたので、その額は当時の小野測器の三ヶ月分ほどの生産額で、当然その間は他の仕事はする余裕なく、三ヶ月も他から一切の集金が途絶え、K銀行から警戒されたのも思い出の一つである。昭和26年 横浜にて

次に、特記すべきは、戦後禁止されていた航空機の研究が許されて、通産省の機械試験所に、日本にもロールスロイスのジェットエンジンが入荷した。さっそく私の所でかねてから工業方面へ研究していた、カウンター式回転計が採用された。これが、労働基準法対応の反応時間計から、工業方面へ応用された電子管式計数器の第二号器である。この回転計は本家ロールスロイス社でもまだ使っていないと誉められた。そのとき以来、ジェットエンジン、スーパーチャージャーなど高速の回転計は小野測器製が定着した。 また、この機械は後になって自動車用としても定着し、小野測器の基本製品になった。


次に、ホンダさんが、オートバイを世界的製品に仕上げるため、まずイギリス、マン島でのレースに勝って世界に認められるよう、浅間でレース運び、及びエンジンの馬力アップの研究を行っていた。その手伝いを行ったのが、自動車業界とのつきあいの始まりであり、この時期にそれまで、個人の小野測器研究所として営業していた会社を、有限会社小野測器製作所として発足した。昭和29年1月のことである。


3へ続く

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