なかにわ

ある技術屋の述懐

小野 義一郎

 

 

小学校から大学まで、すべての教育は外地で受け、戦争中の軍隊生活、ソ連、国民党、中国共産党などの混乱渦巻く、敗戦後の満州生活を経て、昭和22年やっとの思いの母国への引き揚げ、本国ではただただ生きる手段の零細企業を経営していたら、いつの間にやら第一部の上場会社に成長した小野測器。

考えてみると、過酷な運命に翻弄されもしたが、運にも恵まれた、私の人生である。

私は運命の女神には何事も逆らわない主義で、ただ順応するようにと心がけてきた事が、逆鱗にもふれない結果を生んだと、信じている。いわば偏に老子の無為の世界である。

現代の平和ボケした、日本人にはとても想像出来ないだろうが、私のたどった技術屋人生を、取りとめもない文ではあるが記して見よう。

 

1.学生から軍隊時代

 

 私は炭鉱の町撫順中学から、日露戦争の激戦地で名高い旅順の旅順工大予科に入学した。本科は電気工学科に進み、卒業は昭和16年12月、例の真珠湾攻撃の始まった当月である。これが波乱人世のそもそもの第一歩であった。旅順工大本科校舎

大学の本科の学生数は、2百人あまり、それが9学科に分かれるのであるから、学生数より教授以下教職員の方が多いぐらい、正に個人教育に近い授業を受けた。しかし、戦時中にしては、部生活に、又趣味の世界にも、結構青春時代を堪能する事ができ、今日の学生生活に比べても、非常に恵まれた日々を送ることが出来たともいえる。

学業の最後が、例の真珠湾攻撃の勃発で、緊急に軍隊入営の為、卒業が三ヶ月繰り上がったが、予科は弓道部の部活動に、本科はラジオなど組立の趣味に、充分な時間を持つことが出来た。弓道部インターハイ優勝実は、この趣味に時間を浪費したことが、結果的に弱電の勉強に励んだ事になり、ひいては小野測器の主要技術にまで成長したのであるが、勿論当時学生の私には知る由もなかった。


それは戦前の電気工学は、發送電など所謂強電が主体で、今日全盛の通信や情報など、当時で云う弱電技術は、遊びとしては兎に角、学問として殆ど認められないような時代である。 特に大陸の満州では大きいことは良いことだの思想がはびこり、勿論旅順工大では、それに関する授業すらなかった。

尤も、いま私が主要技術としている、エレクトロニクス、特にデジタル技術などは、戦前日本には無かった技術で、特に機械量のデジタル計測などは、全くの独学で、用語から自分で考え出さねばならなかった、正に新しい技術分野であった。しかし、考えようによっては、何を考えても独創となる、幸運な時代を過ごしたともいえる。

卒業した時は、世界大戦が始まった途端のこと、体でも悪くなければ、軍隊入りは当然の義務であるとの気構えは全国民に浸透していた。体を動かすことの嫌いな私は、スポーツ全般に渡ってもそうであるが、特に戦闘に対する訓練である、教練は最も不得意な分野だった。しかし、避けることの出来ない、義務の軍隊生活の中で、少しでも、専門が活かせられたらと考えて、陸軍の兵技将校を受けた。幸運にも無事試験も通り、翌昭和17年の2月瀧野川の陸軍技術幹部候補生隊に見習士官として入隊し、4月に陸軍兵技中尉に任官、また満州に帰り、汽車の駅で奉天の一つ北、文官屯の南満陸軍造兵廠に赴任する事となった。


私の辿った、その選択は、軍隊や教練が好きで選んだ職業ではない。昭和19年 文官屯むしろ、一番苦手な嫌な分野である。それも突然数カ月で本職の職業軍人のエリートに、飛びあがったことは、回りの生粋の職業軍人と、色々ときしみが生じたのは致し方のないことであった。

しかし、この苦手の軍隊で覚えさせられた、兵の指揮法や、作戦の立て方のバイブル、作戦要務令や、兵法を、勉強させられた事は、後に会社経営で、色々と難しい事に出会ったとき、どうすべきか、と共通する思想があり、正直に云って、後でどんなに助かったかわからない。


又、当時の陸軍特に地方の造兵廠には、技術将校の高度な専門知識は殆ど必要なかった。私も、業務が事務である作業課の材料係に配属され、軍需動員計画と、専ら材料手配をやらされ、専門としていた電気の知識の使えないことに、毎日不満を託っていた。


だが、周りを見回すと、廠内で陸軍97式中戦車と、各種砲弾及び、火薬を作っていた。しかも、軍の工場である。能率は悪くても、当時の日本としては、一流の新鋭設備を持ち、一方図書館にはこれまた、よそでは見られないような、内外工学図書があふれていた。
そこで、仕事は部下に任せて、暇を作っては、それらの工場の作業法を学び、図書館で本を読むことで、鬱憤をはらす事にした。


又、幸運なことに、軍需工場の監督官も兼務していたので、どんな民間工場でも自由に見学出来た。 当時満州での、民間の軍需工場群は主に奉天の鉄西にあった。日本光学の子会社満州光学や、住友通信機「今のNEC」の子会社満州通信機など、それも暇を見ては、監督官の特権を利用して入り浸り、当時精密機械とされる各種兵器の製作法が勉強できた。だが、そのうち、日々に戦況が悪化してきて、日本では八幡に相当する、満州の製鉄メッカ、鞍山が爆撃された。


私はその後の対策の為、監督事務所を開設し、その所長を務めた。だが、ここでも一年間ほど、今までの経験とは全く離れた、製鉄、製鋼及び冶金、焼き入れ等の知識を得る事となった。考えてみると、計測業は、お客様からどんな事柄を、どのような測定場所で、方法でと、いかなる要求があるか分からない。それに対応するに、計測メーカーは兎に角浅くとも、広い知識を要求される。私の辿ったランダムな、脈略のない経験は、後での計測屋開店にはまたとなく役に立った事も事実である。

次に、終戦に近くなって、満州での唯一飛行機メーカー、奉天の満州飛行機が爆撃された。そこで、急遽その満飛の一部が、公主嶺とハルピンに疎開する事になった。


また、私はその公主嶺の監督班長に転進させられた。ここでは陸軍4式戦闘機の製作最後の行程と発動機と機体検査を担任した。精密加工の標本ともいえる航空発動機の歯車やブロウチ作業を手近に見た事は、現代の小野測器の主要製品である、自動車用研究機機や、工作用精密検査具の開発に非常に参考となったのも事実である。

電気工学の学生時代は、選択で機械科の授業も受けられた。しかし、学生時代に人気のある授業が、社会に出て必要になるとは限らない。

私も理論や数学が何となくかっこよく感じ、しかも、電気の交流理論に似ている材料力学は受けたが、工作学や工作材料学は、野暮ったく思い、授業もでなかった。しかし、現実では理論だけでは、物は出来ないと云うことである。

苦手の軍隊の物作り経験で、兎に角必要なのは、理論ではなく、機械工学、特に工作学と工作材料学であると身にしみて覚えさせられた。それは、どんな物でも、工作機械と工作材料なしには、物は出来ないからだ。

そこで、旅順工大から工作の大家であった土井先生を造兵廠まで講師に招待し、皆で勉強する事にした。お陰で私も始めから機械を徹底的に勉強し直す事となった。後に京都大学で学位を頂いたときも、機械工学科に提出した程である。即ち軍隊経験で私は専門を、強電の電気工学から機械工学に変わらせられたような結果になった。


先にも記したように、戦前の日本には、弱電の技術は殆どないに等しかった。せっかく日本で発明された八木アンテナも米軍のレーダーとなって我が軍を苦しめた。これも理論だけでは役に立たず、あくまで実践であることを示している。 今、日本が得意としている、エレクトロニクスの技術は、戦後米国から導入された物である。その黎明期に先導役となったのは、占領軍により研究を禁止された、飛行機屋と、パージとなり拠り所を失った我々陸海軍の技術将校であった。


私は戦前の満州のような豪快な送配電の仕事はないので、憧れとしていた強電業界を職とすることは出来なかったが、お陰様で新たに起こった弱電と機械工学をミックスした、エレクトロニクスに進出できた。またこの分野は、運命の女神が、わざわざ、苦境にあった私共に道を開けておいてくれたような幸運な所もあった。

苦手の軍隊から、敗戦後の引き揚げ、当時は頭の柔らかい青春時代を無駄にしたと嘆いていたが、今日の基礎は、その無為無駄の連続の生活から生まれたと思う。
兎に角思いがけない運命を辿るのが人世で、嫌だ嫌だと思っている仕事で、食べるような羽目になるのも皮肉な事実である。


2へ続く

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